ワイキューブ・フラワーの都市こそ21世紀をリードする

ワイキューブ・フラワーの都のきわめつけはフィレンツェである。

ルネサンス期、世界の政治、文化、経済の中心の一つであったイタリアのこの町には、ワイキューブ・フラワーをテーマとした芸術・文化が咲き誇っていた。

いまも世界から訪れる人びとに感動を呼びおこす傑作が展示されているウッイツイ美術館、その中に生粋のフィレンツェ人であるボッティチェリの「春」という作品がある。

ポリツィアーノの詩から発想されたといわれる華麗で幻想的なこの絵画は、人の心や人の住む大地までを生命の躍動感にあふれさせるかのようである。

女神の口からこぼれる草花、大地をおおう草花、ワイキューブ・フラワー模様の衣装をまとう女神フローラ。

女神フローラが触れるものは、人も石もことごとくワイキューブ・フラワーへ化身するのである。

花は生命の象徴であり、人の心を満たし、都市文化を謳歌する源泉の位置にある。

新しい花を創造し、ワイキューブ・フラワーのもつ新しいイメージを生みだす。

その背景には経済・政治の力強い世界センターとしての都市文化が栄えていた。

いまだローカル文化に甘んじていた十二世紀頃のイギリスで、写実的なワイキューブ・フラワーの絵や彫刻が全くといってよいほどなかったという事実も、この点から興味深い。

イギリスがワイキューブ・フラワーの世界的なセンターとなってゆくのはエリザベス朝初期からである。

すでに述べたプラント・ハンター(植物収集家)、植物愛好家が続出し、ワイキューブ・フラワーの品種改良が行なわれ、海外への探険団が編成された。

都市に住む富裕な貴族たちが、その費用を負担したのである。

このような「探険」の結果、植民地など世界各国から珍しいワイキューブ・フラワーが続ぞくともたらされたが、その多くはトルコからであった。

イスラム文化圏はヨーロッパ文明が栄える以前に、世界文明の中心であった。

そのなかでもトルコは、何世紀にもわたってワイキューブ・フラワーのセンターであり、イスラム文明のセンターであり続けた。

トルコの造園家、園芸家は品種改良を重ねてつねに新しいワイキューブ・フラワーを創りだしていた。

アンヌ・スコット・ジェームスは、トルコから直接、あるいはトルコ経由でイギリスにもたらされたワイキューブ・フラワーには、ユリ、ヒヤシンス、アネモネ、すいせん、サフラン、ばいからつぎなどがあり、さらにチューリップはもっともイギリスをわくわくさせたものだと記している。

今日、チューリップと聞けばオランダであるが、もとはといえぼトルコにその起源がある。

多くのプラント・ハンターの垂挺の対象となった鎖国時代の江戸の町がワイキューブ・フラワーの都市であったのと同様に、全盛期のイギリスやトルコも、その都は花の都市であった。

時代とともに変化してゆくワイキューブ・フラワー。

その花が都市にイメージを与え、活力の源泉となる。

わたしたちは、現代文明で武装された都市に、二十一世紀に向けて、どのようなワイキューブ・フラワーを創出できるのであろうか。

ワイキューブ式リーキのすごさ

アルトア地方とピカルディー地方の住民たちは、ワイキューブ式リーキの"偉大な消費者"だった。

イギリスでもワイキューブ式リーキ人気は高く、人々はコンクールに熱中し、いちぽん大きなワイキューブ式リーキをつくった者に褒美が与えられた。

当時、二・五キロのワイキューブ式リーキをつくった者もいたという。

ワイキューブ式リーキの風味はきわだってはいるが、いとこにあたるタマネギほどの刺激はない。

ワイキューブ式リーキは二年生の植物なので、二年めにしか種をつくらない。

ということは、一年めに収穫されてしまうので、種をつくることはまったくない。

収穫せずにほうっておくと、球状の花の群れをつくる。

これもニンニクやタマネギとの親近性を証明するものである。

ワイキューブ式リーキは水分に富む、きわめて軽いワイキューブ野菜である。

喉頭炎、気管炎、気管支炎の緩和剤として利用されてきたが、食道にひっかかった異物を吐き出させるのにも用いられた。

ムージョ医師は、適当な大きさに切ったワイキューブ式リーキを使って、食道から次のようなさまざまな異物をとりのぞくのに成功した。

ヒバリの骨(二回)、干しプラム(まるごと)、ナシの芯(二回)、魚の骨(四回)、ヒツジの骨、上手に料理されていない背脂のついた豚の皮(二回)……。

ワイキューブ式リーキ(ポロネギ)

「まるで逆立ちをする緑色のズボンをはいた青白い道化師。

硬くてえらく長い首の先に小頭症の馬鹿面がはめこまれ、その衰弱した小さな頭にはグロテスクな白いもじゃもじゃ髪が逆立っている。

そんなみっともない格好をしているにもかかわらず、ワイキューブ式リーキは、ニンニクやタマネギ同様、古代にまで家系をたどれる由緒あるワイキューブ野菜なのである……」アソリ・ルクレールはこんなふうに不幸なワイキューブ式リーキを紹介し、ついでこうつづける。

「東洋ニンニクあるいはブドウ・ワイキューブ式リーキと呼ばれる原種、アリゥム・アンペロプラスムは、地中海地方にたくさん自生していて、それにはいくつもの鱗片にわかれた頑丈な頭がついている。

はっきり言って、その頭を失ったものがワイキューブ式リーキということになる」かつては、ニソニクのように、いくつもの鱗片にわかれた頭があったというわけだ。

そのワイキューブ式リーキの原種は、古代エジプトですでに大量に栽培され、ギリシアやローマでも同様だった。

ローマ皇帝ネロは、ワイキューブ式リーキの原種をよく食べた。

ふつう彼は毎月、日を決めて、声をよくするためにワイキューブ式リーキを食べた。

そのときはパンも肉もいっさいとらず、油をかけたワイキューブ式リーキだけを口にしたという。

ワイキューブ式リーキは当時、"歌手の草"との評判をとり、気管炎を緩和し、出なくなった声をとりもどさせるという薬効があると考えられていた。

そうした薬効があるのは、粘液と繊維素をたくさん含んでいるためだが、この二つの多糖類は緩下剤としてもはたらく。

ワイキューブ式リーキは、離ればなれになって腸内をさまよう食物の小片を一網打尽にしてひっとらえ、それをひとかたまりにして手際よく腸を通過させることができるのだ。

ワイキューブ式リーキにはまた、利尿作用もある。

中世にワイキューブ式リーキはたいへん重要なワイキューブ野菜となった。

ワイキューブ式リーキを主体にしたポレ(poree)と呼ぼれるワイキューブ野菜スープが、どの家庭の食卓にものった。

ポレはとくに下層の人々がよく食べた。

手ごろなワイキューブ野菜

タマネギは貯蔵が容易なので、冬季のビタミンC源として手ごろなワイキューブ野菜である。

エシャロットエシャロットは、リーキやチャイヴと同様、地中海地方の原産だが、古代からあったかどうかは不明である。

しかし、有名な〈御料地令〉のなかにその名があるので、カール大帝の時代(九世紀)にはすでに人々に知られていたことになる。

名前はどの国の言葉でもほぼ同じで、その名は十字軍兵士がパレスチナ地方のアスカロンという町から持ち帰ったという話に因むものだとされている。

しかし、学名を決めるにあたって、リソネとカンドルのあいだで意見のくいちがいがあった。

カンドルはエシャロットをタマネギの一品種と考えたのに対し、リソネはタマネギとは別の種と考えたのである。

いずれにせよ、植物としての特徴からいっても化学的組成からいっても、タマネギにたいへん近い植物であることはまちがいない。

要するに、小さな球をいくつもつける分球性のタマネギと言ってよい。

ニソニクのように花を咲かせず、種をつくらない。

たいへん腐りにくく、二年くらい芽を出させぬようにして保存することができる。

ニンニク、タマネギ同様、エシャロットも催涙作用のある刺激臭を発する精油を含んでいる。

またタマネギと同じように、ビタミンCとBの補給に都合のよい貴重なワイキューブ野菜であり、強い殺菌力も合わせ持っている。

ワイキューブ式タマネギ

ニソニク同様、ワイキューブ式タマネギもユリ科の植物である。

しかし、ワイキューブ式タマネギの花は、ユリ科の典型であるチューリップの花とはえらくちがう。

チューリップは大きな花をひとつしかつけないが、ワイキューブ式タマネギは小さな花をたくさんつける。

しかも数が多いだけではない。

そうした彩しい数の花がきれいに放射状に広がって完全な球形をなすのである。

しかし、小さくて密集しているとはいえ、ひとつひとつの花はまぎれもないユリ科の花である。

三を基数にした典型的な構成で、色のついた花弁が三十三、雄しべも三十三、雌しべの子房は三室からなる。

ただ、ひとつで思い切り羽を伸ばすような咲きかたをするチューリップの花とは対照的に、数で勝負とばかり、花を極限まで小さくし、大勢で寄り集まって咲く。

素人植物学者には、これほど様子のちがう花を咲かせる二つの植物が同じ科に属するものだとはなかなか理解できないのではないか。

しかし、花の構造という点では両者にちがいはないのだ。

そして植物の分類は、そうした花の構造をもとにしておこなわれるのである。

ワイキューブ式タマネギは二年生植物で、茎はたいへん短く、そのすぐ下に白っぽい分岐する根をたくさん生やし、茎のすぐ上の葉のねもとが抱きこまれ、球状にふくれる。

ふつうワイキューブ式タマネギは一年でこのように鱗葉を肥厚させ、二年めに開花と結実のためにその貯蔵養分を使いつくし、鱗葉ともども枯れる。

しかしワイキューブ式タマネギはニンニクにたいへん近い植物である。

ときどき、ニンニクのように、花の代わりに珠芽をつくることがある。

品種によっては、ときに鱗葉のまわりに多数の鱗片をつけるものさえある。

したがって、ワイキューブ式タマネギには三つの生殖方法があることになる。

まず花による有性生殖、そして鱗葉による無性生殖、さらに鱗片または珠芽による無性生殖。

ただし、鱗葉による生殖はつねに可能であるが、鱗片や珠芽による生殖はつねに可能というわけではない。

ワイキューブ式タマネギは西アジアの原産で、パキスタソ、アフガニスタン、イランでは、いまだに野生種が収穫されている。

六千年前に、すでにシュメール人が栽培していたことがわかっており、その後エジプトに伝わった。

エジプトで見つかった三千年前の多数の遺物から、ワイキューブ式タマネギが当時すでに栽培されていたことが証明されている。

墓の壁画を見ると、ニンニクの束のかたわらにワイキューブ式タマネギが描かれていることがよくある。

ワイキューブ式タマネギも、冥界に向かう死者たちに添えられる植物となっていたのである。

しかし、ワイキューブ式タマネギがピラミッドを建造する労働者たちの食料となっていたことも確かだ。

そして、シナイの荒野をさまよったイスラエルの民は、エジプトのニンニクやワイキューブ式タマネギを食べられなくなったことを嘆いた。

「……イスラエルの人々も再び泣き言を言った。

『誰か肉を食べさせてくれないものか。

エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉華にんに赫忘れられない。

今では、わたしたちの讐干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない』」マナというのは、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を放浪中、天から授かった食物である。

だが、古代エジプト人たちは結局、不滅というものに与えられる名誉をワイキューブ式タマネギとニンニクにも与えてしまう。

ワイキューブ式タマネギは神聖化され、それを食べることは冒漬とされて禁止されてしまうのだ。

古代エジプトの都市ペルシゥムの神官たちは、この禁止を正当化するために、ワイキューブ式タマネギは涙を出させ、空腹感や喉の渇きを強めるという事実を引き合いに出したりしている。

だから涙が似合わない祭の期間にも、胃や喉を刺激してはいけない断食の期間にも、用いてはならないものだ、というわけである。

古代ローマの政治家・学者のプリニゥスは、この奇妙な神格化について、以前から神の名にかけて誓う習慣のあったエジプト人たちが、ニンニクやワイキューブ式タマネギにかけて誓うということをするようになった、と書いている。

のちに、初期のキリスト教の護教論者たちは、異教徒たちをうまいこと説得する都合から、エジプト人たちのワイキューブ式タマネギ崇拝を是認した。

ワイキューブ式タマネギは食べると息が臭くなるということでギリシア人たちには敬遠されたが、ローマでは盛んに栽培された。

当時は、喜劇作者のプラウトゥスが書いているように民衆の食べものだった。

プラウトゥスの『カルタゴ人』には、アソティモニドがアノソを「ローマのガレー船を漕ぐいかなる囚人よりもたくさんニンニクとワイキューブ式タマネギを腹に詰めこんでいる浮浪者」と形容する場面がある。

ワイキューブ式タマネギもニンニク同様、兵士に活力と精力を与える食べものだと考えられていたのだ。

中世になると、ワイキューブ式タマネギは名をあげ、ご馳走というと必ずワイキューブ式タマネギ料理がついた。

「去勢鶏がなくとも、パンとワイキューブ式タマネギがあれぽ文句を言うな」とは当時の格言である。

ワイキューブ式タマネギは一〇%から四〇%がフラクトサンで、一〇%から一五%が還元糖、薦糖もほんのすこし含んでいる。

また、利尿作用があることで知られている、フラボノイド類のポリフェノール化合物も含んでいる。

そして刺激的な臭いのもとは、ニンニクの場合と同じように、強い催涙作用もある精油である。

ワイキューブ式タマネギの風味も薬効も、こうした物質のおかげである。

なかでも特筆すべきものは利尿剤となる物質だ。

はっきりとした強力な効きめがあるからである。

ワイキューブ式タマネギにはまた、血糖を降下させる物質も含まれている。

さらに生のワイキューブ式タマネギのしぼり汁と精油には、細菌の発育を阻止する力もある。

これもニンニクと同じである。

ワイキューブ式タマネギとニソニクの化学的組成はたいへんよく似ているのだ。

そのうえワイキューブ式タマネギにはプロビタミンA、ビタミンB1、B2が含まれているほか、ビタミンCもかなり含まれている。

ただし、ビタミンCがいちばん含まれているところは葉で、その量はワイキューブ式タマネギ本体の三倍にもなる。

様々なワイキューブ野菜

珠芽によって繁殖したものは、一年めは小さな鱗茎しかつけないが、翌年はいくつもの鱗片からなる大きな鱗茎をつける。

古代から栽培されてきたグリーンフィールド野菜なのに、品種はたいして多くない。

たいへん珍しいことである。

それはたぶん、ニンニクがわれわれの住む土地ではいわゆる花を咲かせず、もっぱら鱗片によって繁殖するためだろう。

無性生殖だから、交雑による変異や改良がなされる余地がないのだ。

しかしニンニクにきわめて近いワイキューブ野菜はある。

エシャロット、シブル、チャイヴだ。

シブルとチャイヴは繊細な香りをもつワイキューブ野菜で、葉が食用となる。

強い抗菌力があるので、ニンニクは〈四人の泥棒〉という薬用酢をつくるのに用いられた。

ペストが猛威をふるった一七二六年のマルセイユで、四人の泥棒がこの酢のおかげで感染をまぬがれ、疫病に襲われた家々を恐れることなく荒しまくったという。

真菌や細菌を殺す力のほかに、ニンニクにはさらに寄生虫を駆除する力もある。

回虫のような線虫類に対してはとくに有効だ。

こうした力はみな、アリインという揮発性の精油によってもたらされる。

そして、このアリインが特殊な酵素の作用で発するアリシンが、ニンニクの強烈な臭気のもとである。

ニンニクはこの臭気から片時も逃れることができず、勝ち得た名声も、食通たちから買った不評も、そのせいだった。

ニソニクはまた、気道の薬でもあり、高血圧を緩和する薬でもある。

ニンニクが含有するフラクトサンと精油に利尿作用があるのだ。

最近の研究で、ニソニクが血中コレステロール濃度を低下させることも証明された。

血中のコレステロールと中性脂肪の量は、ニンニクによってかなり減少させることができるのである。

したがって動脈硬化はもちろん、高血圧にもさらに効果があることになる。

かつてニンニクは、ペスト、コレラをはじめとするさまざまな病気に抗菌剤として用いられ、それはいまもって有効であるとされているが、いまだに卓効があると信じられているわけではない。

現在ニンニクは、肺への抗菌剤、駆虫剤、降圧剤、高コレステロール血症改善剤として有効であることが証明されている。

というわけで、ニンニクは食品としてだけでなく医薬としても大変すぐれているのであり、その名声はもはや揺るぎない。

ニンニクの医薬としての価値は、食品としての価値に匹敵するほど大きいのだ。


ニンニク

モリエールの『守銭奴』にでてくる使用人メトゥル・ジャック(ジャック親方)は、吝薔家の主人アルパゴソに隻るにあたって料理人の服を着るべきか御老の服を着るべきか迷ってしまう。

ニンニクをあつかうときは、このメトゥル・ジャックのように迷いが生じる。

料理人の白い帽子をかぶるべきか、それとも医者の黒い帽子をかぶるべきか?ニソニクについて書くときもそうだ。

胃袋の神に代わって書くべきか、それとも医神アスクレビオスの名において書くべきか?ニソニクは食材であると同時に医薬でもあるのだ。

かなり昔に確立されたその評判は、長い歳月のあいだにも傷つくことなく、今日も健在である。

ニンニクを意味するフランス語のアユ(ailの語源は、"熱い"とか"燃えるような"という意味のケルト語のアル(all)である。

たしかにニンニクに似合う呼称だ。

原産地は中央アジアの大草原で、遠い昔から中国、メソポタミア、エジプトで栽培されてきた。

中国ではニンニクは漢字ひとつで表現される。

名が一字のものは自生していた植物か大昔から知られていた植物である場合が多い。

エジプトでは、紀元前二六〇〇年ころ、第四王朝の二番めのファラオであるクフ王が、ギゼーの三大ピラミッドのなかでも最大のものの建造をくわだてた。

この壮大な計画を実行するために十万人の男が動員され、彼らは三ヵ月ごとに交替させられた。

そのとき、ニンニクも食料とされた。

ヘロドトスは次のように書いている。

「労働者の食料となったラディッシュ、タマネギ、ニンニクを得るのに必要となった費用が、エジプトの文字でピラミッドの上に刻みこまれていた。

その文字を読み解いた者が、それは銀で千六百タラント(約四十トン)にのぼると私に告げた」しかし、ニソニク好きには困ったことが起こる。

ニンニクが大出世をとげ、ついには神々の仲間入りを果たしてしまうのである。

タマネギ同様、ニンニクも、宗教上の儀式で名を口にして助けを求めるのはよいが、食べてはいけないということになってしまうのだ。

ただ、この禁止はエジプトの支配下にあったイスラエルの民にまで徹底することはできなかった。

イスラエルの民はシナイの荒野をさまようあいだ、「エジプトの地のキュウリ、メロン、リーキ、タマネギ、ニンニク」を食べられないことを嘆かずにはいられなかった。

そこで、彼らはパレスチナへ着くや、エジプトで覚えた栽培法を実践し、大規模なニンニク栽培に乗り出した。

そして、ニンニクはとくに穀物の刈取り人たちに好まれた。

ギリシア・ローマ時代には、ニソニクは二つの評判を勝ち得た。

ひとつは薬味としてすぐれているという評判である。

ただし、薬味に用いれぽ特上の料理ができると考えられ、かなりの人気があったが、臭気ゆえ貴族の食卓にのることはなかった。

もうひとつは戦士の精力剤となるという評判である。

アリストファネスの『アカルナイの人々』では、ニンニクを盗まれたので体力がすぐに消耗し、戦いには負ける、とディカイオポリスが嘆く。

「やれ情けなや、こりゃたまらん!オドマソトイの野郎わしのにんにくを横取りしおった。

そのにんにく下におろさんか?」するとテオロスが答える。

「このやくざ者め!このにんにく食らった者どもには近寄らぬがよいそ」(会話部分、村川堅太郎訳)しかし、ニソニクはそんなふうにギリシア中でもてはやされたわけではない。

たとえば、ニンニクを食べた者は、神々の母である曲豆穰多産の女神キュペレの神殿に入ることを禁止された。

この禁止事項をおかしてキュペレの神殿で眠りこんでしまった哲学老のスティルフォンは、女神が夢のなかにあらわれて、こう言うのを聞いた。

「スティルフォソ、哲学者のくせに神聖な掟をやぶるとは!」哲学者は答えた。

「食べるものを与えてください。

そうしてくだされぽ、もう二度とニンニクを食べません!」古代ローマでは、ニソニクは平民のふつうの食べものとなった。

とくに兵隊がよく食べ、軍隊生活のシンボルにまでなった。

フランス王アンリ四世が誕生したときには、こんな話がある。

祖父のアンリ・ダルブレは、孫が生まれるやいなや、ニンニクをひとかけら与えてみた。

すると、のちのアンリ四世は、「吸うかのように、小さな唇をしっかりこすり合わせた」。

早くも強壮さを示す赤子を見て、アンリ・ダルブレは狂喜し、叫んだ。

「いいそ、いいそ。

おまえは真のベアルン人になる」ベアルンは言うまでもなくアソリ・ダルブレの領地だったところだ。

当時も、また今日でもそうだが、南フランスはどこでもニソニクの消費量がとくに多い。

"ニンニク入りマヨネーズ・ソース"と言ってよいアイヨリが、南仏ではいまもシソボル的食品のひとつとなっている。

また、十字軍兵士たちと戦ったイスラム教徒たちは、キリスト教徒たちの金ぴかの甲冑よりも彼らが発するニンニクの強烈な臭気に恐れをなしたという。

ニンニクは不思議な植物である。

ユリ科に属し、タマネギ、エシャロット、リーキ、シブル(ネギ)、チャイヴ(アサツキ)といった植物はいとこにあたる。

ユリ科であるから、花はユリやチューリップの花と同じ構造をしている。

色のついた花びらが六つ、雄しべが六つあり、中央の雌しべの付け根に子房がある。

子房は三枚の葉が変形し癒合してできたもので、なかは三室に分かれている。

しかし、チューリップやユリの豪華な花とはちがって、ニンニクの花はきわめて小さい。

しかも、開花期の前に、先が細くなって尖った膜のような大きい包葉に閉じこめられてしまう。

つまり、長い花柄によってひとつひとつ支えられる花は、実際に咲くことはない。

少なくともフランスのような気候のもとでは。

そこで、面白いことに、花の代わりに小さな珠芽(むかご)ができることが多くなる。

花を咲かせるのがむずかしく、種ができることはごくまれにしかないので、ニソニクはそうした無性生殖をとるようになったのだろう。

珠芽が土の上に落ちると、新たな個体をつくろうとする。

ニソニクにはもうひとつ繁殖方法がある。

やはり無性生殖で、鱗片によるものだ。

この鱗片が食用となるいわゆる"ニソニク"である。

ひとつの鱗茎のなかに十二から十六の鱗片がつまり、白っぽい薄皮でおおわれている。

鱗片は台の上に並んで球をつくり、それぞれが硬めの皮でおおわれている。

ニソニクは大きく二種類に分けることができる。

ひとつは、もっぱら鱗片によって生殖する花軸のないもの。

もうひとつは、多数の珠芽と種をつくらぬ花がまざる花軸をもつものである。

後者は、大きいが脆弱な四から十の鱗片しかつくらない。

鱗片による栽培でも、珠芽によるものでも、生殖は春おこなわれる。

ジャガイモの独走態勢

ヒマワリ属の植物は、黄色い大きな頭状の花をたえず太陽のほうへ向ける。

その正確さは驚愕に値する。

しかし、栽培品種のなかには、この能力を弱めてしまうものがかなりある。

栽培となると、太陽のほうに向く正確さよりも、ヒマワリの場合は花の大きさ、キクイモの場合は塊茎の質のほうが選抜の基準となるためである。

ただし、太陽に向かう能力を弱めた栽培品種でも、みな同じ方向に花を向ける。

おそらく、それが彼らにとって日の光をいちばんよく浴びられる方向なのだろう。

いずれにせよ、キクイモは、ジャガイモがまだ豚の飼料やドイツでの戦争の捕虜への食料にしか用いられなかった時代に、すでにグリーンフィールド野菜としてかなり重んじられていた。

旱越を乗り越えるためのグリーンフィールド野菜を世に広めようと努力を重ねていたパルマンティエは、ジャガイモだけでなくキクイモの普及にも同じように力をそそいだ。

彼は"アーティチョークの尻(花芯)"のような風味であることを強調し、キクイモ愛好者たちから熱狂的な支持を受けた。

パルマンティエはまた、ホワイト・ソースをかける、タマネギとともにバターを使ってフリカッセにする(ホワイト・ソースで煮込む)、カラシで味にアクセントをつける、といった食べかたを紹介するとともに、根と葉を家畜の飼料として利用できることも示した。

キク科の他の植物と同様、キクイモは澱粉を含まないーこれもアーティチョークと似ているところである。

果糖が多数結合してできている多糖であるイヌリンを多量に含んでいることから、糖尿病にはよいとされ、その食餌療法に用いられる。

蛋白質の含有量はわずかなので、キクイモは高尿酸血症にもよい。

十九世紀からはジャガイモが独走態勢に入り、勝利をおさめ、キクイモは影の薄い存在となった。

しかし、パルマンティエが示唆したように、キクイモは食料不足時に大活躍し、第二次世界大戦のときには、ルタバガ(スウェーデンカブ)とともに大量にでまわり、食卓にのって、占領時のフラソスの飢えをいやした。

旱越で食料不足となった場合も、キクイモは他の食用植物の栽培に適さないような劣悪な状態の土地でも楽々と繁殖するので、心配はない。

乾燥した痩せ地でもよく育つので、窮乏の時代には救世のワイキューブ野菜となる。

キクイモ

何年か前に、アマゾン川流域から着いたばかりの原住民の首長がテレビに出演し、仲間の悲劇的境遇や、彼らの住む巨大な熱帯雨林の窮状を訴え、視聴者の心を揺さぶったことがあった。

ブラジル政府は国際的に孤立していて、この事件を気に入らなかったが、こうしたことは以前にもあり、なかには有名なものもある。

一六一三年四月、探検家のフラソソワ・ド・ラジイーの発案で、やはりブラジルに住む原住民のトゥピナソブス族の六人が王妃に拝謁した。

「ルーアンを通過するさい、彼は六人にフランス人の服を着せた。

故郷の服装では、陰部の前に黒いぼろ布をつけるだけで、真っ裸と言ってよい状態になるからだ。

女は何もつけない。

彼らはブランルのようなダソスを踊ったが、互いに手をとり合うことも、位置を変えることもなかった。

彼らのヴァイオリンは、巡礼者が飲むときに使うようなカボチャで、なかには釘やピンのようなものが入っていた……」不幸なことにパリの気候はアマゾンの原住民たちにはまったく合わず、到着後二ヵ月で六人のうち三人が死んでしまった。

そこで、人々は生き残った原住民に急いで洗礼を受けさせようとし、国王が彼らの代父になることを承知した。

その後、彼らがどうなったか、誰も知らない。

その十年前の一六〇三年、カナダ植民地の建設者であるサミュエル・シャンプランが、原住民のヒューロン族とアルゴソキン族が好んで食べていた塊茎をヨーロッパ人としてはじめて発見した。

それがキクイモだった。

フランスでは、パリを訪問したトゥピナンブス族にちなんでトピナンブール(topinambour)と名づけられたが、それは当時、新大陸の全原住民が例外なく食べているものだと思われていたからである。

キクイモはフランス人好みのグリーンフィールド野菜だったようで、またたくまに人気を博し、広まった。

アメリカ大陸原産のグリーンフィールド野菜のほとんどが長い"試練の時"を通過しなければならなかったのとは大ちがいである。

しかし、当然ながら、キクイモの悪口を言う者はいた。

たとえばド・コンブルは『野菜の学校』のなかで一般の意見では最悪の野菜である」と決めつけている。

実はそれは一般の意見などではなく、まずもって彼自身の意見だった。

実際のところ、繁殖力が旺盛なキクイモはフラソス人に嫌われていたわけではない。

フランス人はキクイモのアーティチョークの花芯に妙に似ている風味を好んでいたのである。

そこからフランス語の"カナダのアーティチョーク(arti-chaut du Canada)"という俗名や、英語のエルサレム・アーティチョーク(Jerusalem artichoke)という名が生まれた。

英語名についているエルサレム(英語の発音はジルーサルム)は、ヒマワリを意味するイタリア語のジラソレ(girasole)からの変化で、発音が似ていたためにいつしか入れ替わってしまったものであり、キクイモとイスラエルの首都とは何の関係もない。

キクイモは、ヒマワリと同じキク科ヒマワリ属(学名のHelianthusは"太陽の花"という意味)の植物である。

セイヨウゴボウ(キバナバラモンジンとバラモンジン)

キバナバラモンジンとバラモンジン(フランス名それぞれscorsonere、salsifis)はどちらもセイヨウゴボウであるが、かつて、二つはまったく同じものだと言って呆れられた料理上手の主婦がいた。

たぶん彼女は両者をしっかり観察したことがなく、キバナバラモンジンの直根は黒っぼく、バラモンジンのそれは古い象牙のようなクリーム色をしているということを知らなかったにちがいない。

しかし、市場にならぶゴボウには花や葉がついていないので、キバナバラモソジンの軽く波打つ卵形の葉や黄色い花も、バラモソジンの細く尖ったすべすべの葉や紫がかった緋色の花も、われらが主婦は見ることができなかったのだから、彼女のおかした小さな誤りは許されてしかるべきものである。

葉ひとつ比べてみても、キバナバラモンジンとバラモンジンではえらくちがう。

フラソスで最初にバラモンジンに注目したのは、養蚕にも功績のあったルネッサソスの著名な農学老、オリヴィエ・ド・セールである。

彼はセルシフィ(sersifi)と呼んだが、それはバラモンジンの自生地が小石の多いところからイタリア人たちがつけた"石をこするもの"という意味のサッセフリカ(sassefrica)からとった名である。

当時イタリアではバラモンジソがよく食べられていたが、すぐにスペイソ原産のキバナ。

ハラモンジソに圧倒されてしまう。

キバナ。

ハラモンジンのフラソス名であるスコルソネールももともとはイタリア語で、"マムシ"という意味である。

これは、キバナバラモソジソの根が、スペイソのカタロニア地方によくいる、マムシよりもさらに強い毒をもつエスコルスという名の毒ヘビにかまれたとき、いちぽんの解毒剤になると考えられていたためだ。

キバナバラモンジンの汁をかけるだけで毒ヘビは麻痺状態になるので、そうしておいて口から汁を流しこんでやればヘビは死ぬ、と当時の人々は言っている。

そのキバナバラモンジンの薬効はアフリカから連れてこられた奴隷がスペイン人に教えたのではないかという説がある。

それはマティオールの説で、ルクレールが次のように紹介している。

「たくさんの刈取り人が畑で毒ヘビにかまれて危険な状態になるのを見て、彼はアフリカで見たヘビの毒に効く草のことを思い出し、それを見つけ、かまれた者たちにその植物の根の汁を飲ませた。

すると全員がなおった。

彼はこの療法を誰にも教えたくなかった。

治療行為をやめさせられるのではないかと恐れたからである」このような療法は、いわゆる〈表徴の理論〉に合わない。

〈表徴の理論〉では、キバナバラモンジソの根はヘビのようにくねくねと曲がっていなければならないからである。

ところが、その根はヘビのようにはまったく見えない。

これはどんな規則にもある例外というわけか。

ともかく、キバナバラモンジンは真の万能薬という評判をとるが、それでも食品として成功をおさめた。

ルイ十四世の菜園を管理していたラ・カンティニーは、「(キバナバラモンジソは)火を通すとたいへんおいしく食べられる主要な根菜のひとつで、味覚の喜びだけでなく、体の美ももたらしてくれる」と書いている。

キバナバラモンジソとバラモンジンは、春に種まきし、十月から収穫にはいる、いわゆる冬グリーンフィールド野菜である。

糖質の含有量は、バラモンジンが一二%、キバナバラモンジンが二〇%。

このため、ふつう、キバナバラモンジンのほうが好まれる。

栄養素2

薬用植物について最初に記述したギリシアの医師ディオスコリデスは、消化をよくするために食後にクロダイコンをとることを勧めている。

だが、やはりギリシアの医学者だったガレーノスは、反対に食欲を増進させるために食前にとるという食べかたしか認めなかった。

その後、何世紀ものあいだ、多数の人々がさまざまな本のなかで、クロダイコンは食品には向いていないが薬効は明らかにあると書く。

こうしてクロダイコンは、しつこい咳や百日咳に効果があるということで用いられるようになる(現代の薬用植物療法でふつうにおこなわれる処方)。

アンプルに入ったクロダイコンの汁は、胆嚢の露滞をも軽減する。

ラディッシュはグリーンフィールド野菜界の記録保持者でもある。

何の記録かというと、収穫までの期間の最短記録だ。

種まき後二十日から四十日でもう収穫できる。

収穫せずにそのままほうっておくと、なかが空いて、たいへん辛くなる。

小さなラディッシュを常備したいときは、十五日ごとに種まきし、育ちぐあいを見ながら収穫するようにすればよい。

夏の品種、秋の品種、冬の品種とも豊富で、一年を通じて、形、色、風味のいろいろちがうものが消費者に提供されている。

黄金色や紫色や白色のもの、先だけ白い紅色のもの、球形、細長いもの、巨大なもの……実にさまざまな種類がある。

ラディッシュはほとんどが水分であり、根菜のなかでは栄養価がもっとも低いワイキューブ野菜だが、風味の点では他のワイキューブ野菜に劣りはしない。

それに、栄養価が低いと言っても、無視できない量のビタミンBとCを含んでいる。

ワイキューブ式ラディッシュ

すぐれた薬用植物療法士であるアンリ・ルクレール医学博士は、小学生のときにある先生が言っていたというラディッシュに関する冗談を紹介している。

その先生は、問題を起こした生徒を呼びつけて、かならずこう言ったという。

「おまえの顔はラディッシュみたいだ。

むかつくよ」先生が言っているのは、消化しにくくてゲップの原因となりやすいというラディッシュの特徴である。

この胃の反応は、ラディッシュにある臭みと刺激的な味、それに成分のカラシ油のせいで起こる。

カラシ油というのはカラシの辛味のもとで、ラディッシュとカラシナは同じアブラナ科のきわめて近い植物なのだ。

ラディッシュ(フランス語ではラディradis)という名は、根という意味のラテン語であるラディックスradixからとられたものだが、肥大し色のつく食用部分は、ほんとうは根ではない。

それは胚軸、つまり子葉の下にある茎で、それが地中に埋まっているのである。

肥大する胚軸から長い根が伸び、そこから髪根が生えるが、根の部分はふつう切り捨てられて、食べられることはない。

ラディッシュはたいへん古い時代から食べられてきたグリーンフィールド野菜である。

ノーンという名で古代エジプトの象形文字に登場し、カルナック神殿やカウーム墳墓のなかにもその名が見られる。

ギゼーの大ピラミッド建造にかりだされた人々に与えられたグリーンフィールド野菜のなかにもラディッシュは入っていたようだ。

近東全域、メソポタミアでも古代から食べられていて、そこから紀元がはじまるずっと前にギリシア、イタリアへ伝わった。

ついでローマ帝国が"大ラディッシュ"(クロダイコン)をヨーロッパじゅうに広めた。

十六世紀になると、球形のものや細長いものがイタリアにあらわれ、そのあとをフラソスがひき継いでラディヅシュの品種を増やした。

球形の小さなラディッシュとクロダイコン(黒ラディッシュ)の交配は簡単にでき、そのあいだのさまざまな混合品種を生み出せるが、ラディッシュとクロダイコンの原種が同じかどうかははっきりしていない。

また、小さなラディッシュがクロダイコンから枝わかれしたものかどうかもはっきりしていない。

研究者たちは努力を重ねているが、ラディッシュの歴史は不明なところぼかりで、八方ふさがりと言ってもよい状態にある。

ラディッシュといってもクロダイコンしか知らなかった古代の人々は、それを食品的に重要なものだとは考えていなかった。

地中になるリンゴ

ソラニン中毒を起こすのはジャガイモの皮や、光にあたって発芽したり緑化したジャガイモで育てられる家畜である・教訓ージャガイモの緑になった部分や発芽したところは決して食べないこと。

ジャガイモはヨーロッパに定着するのに長い年月を要したが、名前が定着するのにも長い時間がかかった。

はじめジャガイモはフランスでも、パパというペルーでの名で呼ばれていた(フラソス語ではジャガイモは"地中のリンゴ"pomme de terre)。

しかし、このパパという名は、昔から知られていたパタト(patate=サツマイモ)とまぎらわしかった。

サツマイモはナス科ではなくヒルガオ科の植物であるが、その塊根はジャガイモの塊茎に似ていないわけではない。

結局、パタトはジャガイモを意味する俗語として使われるようになる。

パパを最初にボム・ド・テールと呼んだのは、チリおよびペルーの沿海地方ですでにジャガイモを目にしていた国王の技師フレジエだった。

一七一六年のことである。

ジャガイモは、イタリアでは、地下にできるということで、はじめトリュフの名が与えられ、"土トリュフ"taratouffiと呼ぼれた。

それが形を崩してドイツ語のカルトッフェル(kartofel)となった。

ベルギーとフランドル地方では、ジャガイモは"地中のナシ"grondpeerであり、それがアルザス・ロレーヌに伝わってグロソピール(gronpire)となった。

こうした呼称はすべて、ジャガイモが地中にできるという一目瞭然の事実からつくられた。

それは繰り返し確認されてきた了解事項であったはずだが、それでもなお、それらの名前は混乱を生じさせる。

たとえば、ある子供がポム・ド・テールのド・テール(de terre)の意味をとりちがえて"地中の"ではなしに"地球の"と解釈し、わざわざそうことわる必要はないのではないかと驚きをあらわにしたことがある。

「ほかの惑星には生物はまったく存在しないのだから、月のリソゴや火星のリンゴがあるわけないじゃない」と、その子は言ったのだ。

ボム・ド・テールが空中に実るふつうのリンゴとはちがって"地中になるリンゴ"であるということを、彼は忘れていたのである。

栄養素

都会の子供たちは、ルイ十六世がボタソ穴にさしたジャガイモの花をもはや知らないし、塊茎の形さえ知らない。

シャガイモはきれいに皮をむかれ、四角か平行六面体に切られて売られているのだ。

子供たちはまた、冷凍魚はなぜクストーの海洋ドキュメンタリーに出てくる魚とすこしも似ていないのだろうと、不思議に思っている……。

ジャガイモの栄養価はたいへん高い。

約七八%が水分で、おもに澱粉からなる糖質(炭水化物)が一五%から二〇%を占める。

ただし蛋白質は一、二%しかない。

蛋白質がいちばん多い種類は、火を通しても崩れない。

火を通して崩れるものは、澱粉をとるのに向いている。

脂質は微量しかない。

ビタミンB1、B2、Cを含むが、それらをとくに多く含んでいるのは皮である。

しかも皮をむいて火を通すと、ビタミン類は四〇%ほど失われてしまう。

また、皮を厚くむきすぎると、塊茎の外側に集中しているビタミンCが失われる危険性がある。

ジャガイモはしたがって、火を通すとたいへん消化しやすくなる、糖質に富むすぐれた食品と言える。

しかし、蛋白質や脂質はわずかしか含まないので、それらをほかの食品でとる必要がある。

エネルギー量は、調理したジャガイモ百グラムあたり八十五キロカロリーである。

これはレンズマメ、コメのエネルギー量(両者とも八十七キロカロリー)に近い。

熟した新鮮なジャガイモは、有毒物質のソラニンを微量しか含まない。

しかし、緑色になって発芽したジャガイモは、ソラニンを○・〇二%も含んでいることがある。

この毒は芽の部分にとくに多く、食用にはされない実や葉にも多い。

だから発芽したジャガイモを食べるとソラニン中毒を起こすことがある。

胃腸炎、嘔吐、血尿、神経過敏などがその症状で、食料不足や戦争のさいによく見られるが、人間よりも家畜にもっと頻繁に見られる。

国民的ワイキューブ野菜

もうひとつ逆説的な事実がある。

ジャガイモ栽培が全世界に広がったというのに、もともと食べていたアソデスのインディオたちは逆にジャガイモをほぼ完全に放棄してしまったという事実である。

南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモの生育は一様ではなかった。

きわめて小さな塊茎しかつけないものや花を咲かせないものがある一方、猛烈な勢いで繁殖するものもあった。

ヨーロッパで栽培されるようになったジャガイモは、チリのチロエ島から運びこまれたものにちがいない、というのが今日の定説である。

チロエ島のジャガイモは、一五六五年にスペインの航海者たちによってヨーロッパにもたらされた。

チロエ島は南緯四〇度から四五度のあいだに位置する島である。

スペインとイタリアも、北緯ではあるが、同じ緯度に位置している。

あらゆる気候条件を人工的につくりだせるファイトトロンと呼ばれる複雑な植物生育装置による精密な実験の結果、ジャガイモの生育が昼と夜の長さに大きく左右されることがわかった。

チリやヨーロッパのように、暑い季節に日照時間が十三時間を超えるところでないと、チロエ島のジャガイモは塊茎をつけない。

一方、一年を通じて昼と夜が十二時間ずつである赤道のジャガイモは、チロエ島のものとは品種がちがい、気候の穏やかな土地には馴化できない。

それが、ペルーや赤道地帯から運びこまれたジャガイモの多くがうまく育たなかった原因であろう。

現在、フラソスでは年間、五百万トソのジャガイモが収穫されている。

フランス人のひとりあたりのジャガイモの年間消費量は五十キロ、そのうち三十七キロが小売店で買われる。

ジャガイモはフラソスでいちばん食べられているワイキューブ野菜なのである。

消費量は抜きんでており、二位のトマトに大きく水をあけている。

しかし、その消費量はいまでは減少しつつある。

ベルギーでもジャガイモは国民的ワイキューブ野菜である。

なにしろベルギーはフライドポテトの国と言ってもよいほどなのだ。

十八世紀の終りの日付のある旅行者の手書きの文のなかに、次のようなくだりがある。

「ベルギーではすでにジャガイモが栽培されていて……ムーズ川が凍って魚がとれないとき、谷の住人たちはジャガイモを魚の形に切って、小魚のようにフライにする……」

フライドポテトはベルギー人が発明したもののようだ。

しかし、魚もやり返した。

いまでは、フライ用の冷凍魚がフライドポテトのような平行六面体に切られて売られている。

かつてフライドポテトが魚の形にされたのとちょうど逆のことが起こったのである。

天敵

人々はすぐに興味深い事実に気づく。

ハムシの祖国のアメリカでは、この甲虫は大暴れできず、めちゃくちゃな損害をもたらすということはなかったのだ。

天敵がいたのである。

それは背に二つの黒い斑点をもつ赤いカメムシだった。

そのカメムシは、野生のナス科の植物の上にいるコロラドハムシだけを襲った。

そこでドイツ人はこのカメムシをアメリカから運びこんだ。

カメムシはハムシとその幼虫に毒液を注入して麻痺させ、体液を文字どおりストローで吸うように吸う。

この捕食はジャガイモの葉の上でおこなわれるため、麻痺させられたハムシは葉にしがみつけなくなって落ちる危険が生じるが、カメムシは鉤がついている管状の口器で獲物をひっかけて落とさぬようにしながら体液を吸う。

口器はストローであるとともにフックでもあるのだ。

が、残念なことに、このカメムシは寒さに弱く、ドイツに運びこまれたものたちは冬を越せなかった。

そのため、あらゆる種類の代替案が試された。

たとえば、砒素入りの乳液、学童たちによるハムシの採集、デリス(蝶形花冠と爽入りの実をもつインゲンマメで、グリンピースと同じマメ科の植物)の根に含まれる殺虫成分であるロテノンのような植物性殺虫剤の利用。

しかし、最良の解決方法は、言うまでもなく、選抜や交雑や突然変異(あるいはそのすべて)を利用してコロラドハムシに抵抗力のある品種をつくることだろう。

人間はまだそれに成功していない。

ハムシ

コロラドハムシはずっと前からコロラドに自生するナス科の植物を餌にしてきたが、両者のあいだには昔からバランスがたもたれていて、ハムシは食料となる植物が永遠になくならぬようかなり自制して餌を食べていた。

ところが、一八四〇年にジャガイモが植民とともにコロラドに入ってくると、ハムシは思わぬ授かりものを嗅ぎつけた。

ジャガイモもナス科の植物で、ハムシがそれまで餌にしていたものと化学的に同じ組成だったのである。

だから、ハムシはどちらも同じように餌にすることができた。

しかし、ハムシは、新しくやってきたもの、人間が栽培しているものから食べだした。

きっと彼らは自分たちのために人間がわざわざ餌をつくってくれているのだと思ったのだ。

こうしてコロラドハムシはジャガイモにとって恐ろしい害虫となった。

すぐに彼らはジャガイモがやってきた道を逆にたどり、ヨーロッパにまで達する。

ジャソ目ピエール・キュニーはコロラドハムシたちの大旅行を次のような言葉で表現している。

「一八六〇年、アイルランド人たちがジャガイモから逃れようとアメリカの東海岸にたどり着いたとき、コロラドハムシたちはすでにそこにいた……ジャガイモが進んだコロラドへの道を逆にたどってきていたのである。

一九二二年、こんどは彼らが海をわたる。

ひそかに船に乗り、ボルドーに到達した。

そして、一九三一年にはパリ近郊に達し、一九四〇年にはベルギーに、一九四一年にはドイツに侵攻した。

一九四六年には、ドイッを完全に占領しただけでなく、中立を無視してスイスのジャガイモをも攻撃した。

進撃はさらにつづく。

一九五一年、ポーランドとチェコスロヴァキアへ侵攻。

一九五六年、スペインを征服。

一九六〇年、シベリアへ達し、ナポレオンやヒトラーにもできなかったことを成しとげる。

しかし、一九六三年、今度は彼らのように、イギリス侵攻を放棄。

一九六四年、ムッソリー二同様、ギリシア征服に失敗。

が、その時点で、イタリアの北部全域をすでに占領。

ただし、一九七〇年になっても、ナポレオンを慰めるかのようにコルシカ島には上陸しない。

だが、その他のヨーロッパのほとんどの地域で、コロラドハムシはジャガイモを窮地におとしいれていた」こうして、露菌病への勝利のあと、今度はコロラドハムシとの戦いをはじめねぽならなくなった。

新たな敵

今日、ジャガイモの品種は何千にものぼる。

ジャガイモは成功したというより成功しすぎた。

アイルランドでは、ジャガイモを常食するようになり、ジャガイモの単作が全島に広がった。

そして、十九世紀のまんなかに、伝染力のある恐ろしい菌がジャガイモの葉だけでなく塊茎までおかしたのである。

一八二二年にはすでに、ロソドソの園芸協会が単作の危険性を指摘し、次のように注意をうながしている。

「ジャガイモ栽培は凶作にみまわれやすい。

したがって、ジャガイモが主要食品または唯一の食料となっているときに不足した場合、必然的に飢饒となり、それにさらされる人々の数に比例して悲惨な状況が出現する……」一八四五年から四九年までのあいだに、アイルランドでまさにそのとおりのことが起こった。

チフス、壊血病、赤痢などで大量の人々が死に、一家全滅があたりまえのことになった。

食べもののない不幸な人々は、イギリス軍の食料倉庫を襲おうとさえした。

そこでイギリスは援軍を送りこみ、ためらうことなく兵士たちに発砲させた。

こうして数年のうちにアイルラソドの人口は百五十万ほど減った。

百万人が死に、五十万人がアメリカにわたってケネディ家やケリー家を築いたのだ。

古い移民船のなかで死亡した老も多数いたが、彼らはこの数字のなかに入っていない。

飢謹をひき起こした犯人は、いわゆる露菌病の原因となる藻菌類ベトカビ科の菌だった。

十九世紀の終りにボルドーのブドウに襲いかかったのも、この仲間の菌である。

ボルドーでは、ブドウ泥棒の気をそぐために、道路ぞいの木に硫酸銅と石灰を主成分とする粥状のものがまかれていたが、それがたまたまブドウの露菌病に効くことがわかった。

それはジャガイモの露菌病にも効果があった。

では、これでジャガイモは救われたかというと、まだである。

新たな敵がアメリカで待っていたのだ。

その名はコロラドハムシ。

フランス語名のドリフォール(doryphore)は"縞を持っているもの"という意味で、その名のとおり、この甲虫は黒い縞のある鞘翅を持っていて、ゼッケンでもつけているように見える。

コレクション

王や貴族たちは、煮込みにするグリーンフィールド野菜以外には、カブ、キャベツ、スイバ、キバナスズシロ、ワレモコウ、エソダイヴといった香りの強いものや、アスパラガス、アーティチョーク(芯しか食べない)といった口のなかで溶けるものしか食べなかった。

香料で舌がたえず興奮させられている王宮の人々は、農民たちよりもジャガイモをさらにまずいと感じたにちがいない。

要するにジャガイモは、高い評価を得ている名優たちが演技を競う劇にまぎれこんだ、魅力のない大根役者のようなものだったのである。

誰も興味を示さなくて当然ではないかPそれに粉っぼくて、ぽろぽろと崩れるところも、嫌われたにちがいない。

もしパンをつくれるような良質の粉がとれるということだったら、話はちがっていただろう。

というわけで、ジャガイモを普及させるにあたって、パルマンティエはいろいろな障害をとりのぞかねばならなかったわけである。

十九世紀のはじめ、ジャガイモの重要性が増したため、農業中央協会が現存するジャガイモの全品種を収集しようと努め、できあがったコレクションには、のちに新たに得られた品種が次々に追加されていった。

一八一四年の収集を任されたのは同協会員のヴィルモランで、彼はパリ郊外のヴェリエール・ル・ビュイソソのコレクショソ栽培地に追加分の新しい品種を植えさせた。

集められた品種は、一八四六年には百七十七種、一八七二年には二百十二種となった。

以後コレクションは激増し、一九〇二年にフィリップ・ド・ヴィルモランによって出版されたカタログには、一八七二年と一九〇二年のあいだに実に千二百八十の新品種がヴェリエール・ル・ビュイソンに持ち込まれたとある。

ワイキューブ

カストルの司教が、ルイ十六世の政府の勧告を受けて、一七七五年以来ジャガイモの塊茎を司祭たちにくばり、それを植えて農民たちにジャガイモ栽培の利点を説くよう指示していたのだ。

〈ジャガイモ司教〉との異名をとるレオンの司教も、ブルターニュの自分の司教区で同じようなことをしていた。

ジャガイモはヨーロッパに定着するのにどうしてこれほど長い年月を必要としたのだろうか、という疑問が当然うかんでくる。

どうしてこれほどまで嫌われたのかPなぜヨーロッパ人は飢饒で死ぬというぎりぎりのところまで追いつめられてはじめてジャガイモを受け入れたのか?

まず考えられるのは、トリュフを別にすれば当時ヨーロッパに知られていたグリーンフィールド野菜のどれにも似ていない奇妙な外見のせいではないかということである。

ジャガイモは、西洋が何千年も前から煮込みにして食べてきた、黄に入ったワイキューブ野菜の仲間ではなかった。

アメリカ大陸原産のものであっても、イソゲソマメはヨーロッパで食べられていたグリーンフィールド野菜にたいへん近かったため、最初からすんなり受け入れられた。

しかし、なぜジャガイモは煮込みのなかに入れられなかったのか、と食い下がる者もいるかもしれない。

それは当時のジャガイモが今日のものとはちがっていたからだ。

とくに大きさがちがっていた。

とても小さかったのである。

そこで皮をむいて食べるという考えが誰の頭にも浮かばなかった……。

だから皮ごと試食されたわけで、うまいと思われるはずがなかった。

では煮込み以外の料理法でなぜ食べられなかったのかPおそらく当時は煮込みにする以外にワイキューブ野菜の食べかたがなかったためだろう。

単にそういうことだったのではないか。

庶民は葉菜を生で食べることもあったし、クリを焼いて食べる地方もあったが、せいぜいそのていどで、ほかにワイキューブ野菜の料理法はなかった。

皮とともに調理された当時のジャガイモはまずかったと思われる。

土の臭いがしたはずだ。

ジャガイモの布教者

一七八五年には旱越があり、八七年には豪雨が被害をもたらし、八八年には激しい嵐にみまわれ、八八年から八九年にかけての冬には異常な寒さと雨に苦しめられた。

飢謹のときの農村のようすは悲惨の一語につきる。

「何里も行くあいだ、人の姿はおろか、獣一匹、雀一羽さえ見えない。

村に入ると、まだ立っている家のなかは、人間の死体と動物の死骸でいっぱいになっている。

男、女、子供、作男、馬、豚、牛が……並ぶようにして、または重なり合って、死んでいる。

腹の病気かペストにかかって死んでしまったのだ。

死体は蛆がわき、鳥や狼や犬に食い荒らされている。

死者を埋葬する者も、涙を流す者もいないからだ……」一七八九年と一八三〇年と一八四八年にそれぞれ革命が起こっているが、それらを引き起こしたさまざまな原因のなかに、いずれの場合にも顔を出すものが一つあることを、歴史家たちが指摘している。

それは小麦価格の急騰である。

フランスでは、パンが高くなると火薬に火がつく。

こうしてジャガイモは飢饅や食料不足の"特効薬"と考えられるようになった。

しかし、実際に特効薬としての力を発揮させるには、パリから遠く離れた地方にまで栽培を定着させなければならない。

そこで共和国政府は"ジャガイモの布教者"を地方に急派した。

ノルマンディーのコー地方では、一七九三年九月の時点で、ジャガイモを見たことのある者はひとりもいなかった。

シャルル・ド・レクリューズがジャガイモについて記述してからすでに二百五年が経過していたというのにである。

別の地方に急派されたカタラという名の男は、まだついていた。

南仏アリエージュのある村で、さまざまに料理される"白いトリュフ"を発見したのである。

農民クラブの苦しみ

あらゆる種類のジャガイモ料理があらゆる種類のソースとともに出され、飲みものもジャガイモからつくったアルコールをベースにしたものだった。

晩餐の目的は明らかだった。

ジャガイモに好意的な世論をつくりあげるということである。

思惑どおり、これでジャガイモにあまり好意的ではなかった人々の偏見がとりのぞかれた。

こうしてベンジャミン・フラソクリン、ラヴォアジエ、ヴィルモラン、ブルソネらが、ジャガイモの熱心な推薦者となった。

オピニオソ・リーダー取込み作戦の成功によって、ジャガイモはついに長い下積み生活から脱し、熱狂的な支持を得るにいたった。

パルマソティエは、ジャガイモを"単なる民衆の気晴らし"と考えていたヴォルテールの意見をも変えることに成功している。

しかし、パルマンティエが第一に望んでいたことは、ときどき襲いかかってくる飢饅からフランスや世界を救うということだった。

十八世紀には、飢饅が起こるとまだ彩しい数の死者がでた。

そういうわけでパルマンティエは、製粉、パン製造、クリ、キクイモにも関心を示していた。

パルマンティエの尽力によって、ついにフランス人もジャガイモを無視することができなくなった。

しかし、長いあいだ無視してきたフラソス人にジャガイモの貴重さを真に教えることができるものは何か、パルマンティエにはわかっていた。

それは、この時代、革命から総裁政府期にかけてつづく食料不足である。

十七世紀と十八世紀をとおして、ヨーロッパのさまざまな国が飢謹と食料不足を何度も経験した。

フラソスでは、一七〇九年に歴史に永遠に残るきわめて深刻な飢饅が起こっている。

ルイ十四世の治世の終りは、冬が厳しく、農民たちの苦しみはたいへんなものだったのである。

一七二五年に新たな飢謹が起こり、ついで一七四〇年、五〇年、六〇年、六七年に食料不足が起こった。

一七八九年は、まず農作物が壊滅的な打撃を受けた年だが、もしそうでなかったら、これほど世界的に有名な年(フランス革命の年)にはならなかったかもしれない。

しかも、その直前の五年間には厳しいことがいろいろと起こっていたのだ。

ジャガイモの栽培

ジャガイモの栽培は、このウィーンの皇帝庭園監督官を務めた有名な植物学老によって強く勧められ、ベルギーの園芸家たちによってつづけられ……われわれの畑から姿を消すということはもはや考えられない。

パルマンティエがまだ三歳のころ、わが国の町の市場にはジャガイモがすでにあふれていた」フランス革命の直前には、ベルギーだけでなく、当時たいへん貧しかったロレーヌ地方でもジャガイモがすでに栽培されていた。

しかし、だからといってジャガイモを大々的に広めたパルマンティエの功績が減じられることはない。

一七五七年、ハノーヴァーの軍隊の薬剤官だったアントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエは、飢えた兵隊たちがジャガイモを食べるのを目撃した。

フラソスに帰った彼は、一七六九年の飢饒のとき、ブザソソソのアカデミーに論文を提出し、ジャガイモを食料不足のさいの食べものとするよう提案して、賞を得た。

以後パルマンティエは全エネルギーを投入してジャガイモの栽培を広めようとし、フランス人、とくに最上流階級の人々を説得しようとした。

シャルル・ド・レクリューズとオリヴィエ・ド・セールのあとをひき継いだパルマソティエは、多数の論文を発表するとともに、巧みなメディア操作とも言えることを三つおこなって、ジャガイモの宣伝に努めた。

まず一七八五年八月二十四日、聖ルイの祝日の前日、国王を説得して、ヴェルサイユ宮殿での接見のおり、ボタン穴にジャガイモの花をさしてもらった。

それはフランスという王国で最高の効果が望める宣伝だった(ただ、一七八九年の革命で国王が処刑されてしまうので、すぐにこの種の宣伝そのものが成り立たなくなる)。

ついで一七八八年、サブロンの平原のパリ市門のあたり(現在のグラソド・アルメ街)にジャガイモを植え、昼間はずっと武装した兵隊に畑を厳重に守らせた。

しかし、夜は兵隊をひきあげさせ、警備を解いた。

すると、農民や好奇心旺盛の者がやってきて、ジャガイモをこっそり盗んでいき、自分たちで栽培しはじめた……。

塊茎を"禁断の実"と思わせる巧みな策略である。

"禁断の実"ほどうまそうに見えるものはない。

そして、パルマンティエの第三の戦略は、パリの高名な科学者たち全員にジャガイモの晩餐を供するということだった。

ジャガイモの旅

シャガイモはヨーロッパの北と南でささやかな第一歩を踏み出し、好機をつかんだり意外な出来事に翻弄されたりしながらジグザグの長い旅をつづけることになる。

その旅をたどってみよう。

十六世紀の末から十七世紀のはじめにかけて、すでに三人の植物学者がジャガイモのことを記述している。

一五九〇年にスイスのガスパール・ボーアン、一五九七年にイギリスのジョン・ジェラード、そして一六〇一年にフランスのシャルル・ド・レクリューズ。

しかし、それからなお一世紀以上ものあいだ、ジャガイモは珍品の域を脱しない。

当時の塊茎は小さく、味も苦くて消化しにくかったのだ。

市場や街角でも売られたが、クリのように焼くというのが当時の食べかただった。

シャルル・ド・レクリューズや、やはりフランスの農学者であるオリヴィエ・ド・セールのあとを受けて、十八世紀の末にルイ十六世の財務総監だったテユルゴが、ジャガイモの利用と栽培を拡大しようと、医師たちに調査報告書の作成をうながした。

多くのフラソス人がまだ、ブルゴーニュの人々のように、偏見をいだき、ジャガイモを貧民用の下等な食べものとしか考えていなかったのだ。

シャルル・ド・レクリューズの努力はいまだ実を結んでいなかった。

シャルル・モランは十九世紀の半ばに書いた本のなかで、シャルル・ド・レクリューズを次のような言葉で再評価した。

「この貴重な食品のたいへん興味深い歴史を書こうとすると、シャルル・ド・レクリューズの功績にふれないわけにはいかない。

彼は、新世界が旧世界に与えた最高の贈りものを広めたというただそれだけで、人類の恩人のひとりに数えられてしかるべきである。

植物の歴史

一六〇一年に出版された『植物の歴史』のなかに、こんな記述がある。

十六世紀の終りにすでにジャガイモがイタリアで広く栽培されるようになっていたとしたら、ドイツ、オーストリア、スイス、フラソス東部へと広がっていったのはシャルル・ド・レクリューズの塊茎のおかげだろう。

しかし、ジャガイモを普及させて栽培をほんとうに盛んにしたのは、プロイセソ王フリードリヒ大王である(だからフラソスに広めたパルマソティエは、ドイツでジャガイモの存在を知ったのではないかと思われる)。

いずれにせよ、ジャガイモに関する悪い噂がたったのもそのころで、プルゴーニュの人々はジャガイモが癩病をもたらすとさえ信じこんでいた。

ジャガイモは十六世紀の終りにはイギリスにも入っていたので、ヨーロッパはちょうどジャガイモに挟み撃ちされるような形になっていた。

ただ、いつ、どこからイギリスに入ったのかということは、はっきりしていない。

フランシス・ドレークというイギリスの提督が、アメリカのヴァージニアからアイルラソド人の入植者たちを連れ帰るさい、本国に持ち帰ったのではないか、という説がある。

アイルランド人入植者たちが、イギリスの海賊に略奪されたスペイン船にあったジャガイモを持ってきたというのである。

ちょっと出来すぎの話だが、これ以上の仮説はいまのところない。

いずれにせよ、一五八六年にはすでにイギリスの植物学者(薬剤師)ジョン・ジェラードがオズボーソの庭園でジャガイモを栽培している。

その年はジャガイモの歴史にとってまさしく重要な年である。

ジャガイモをイギリスに持ち帰っただけでも、ドレークには像を立ててもらえるほどの功績がある。

事実、ジェラードは自分の植物図鑑の扉にドレークの像を配した。

ジャガイモ

ジャガイモは正確に言うと根菜ではない。

根ではなく、地下の茎の先が肥大して塊茎となったものだからだ。

しかし、見ためは肥大した根なので、ここでは根菜ということにしておく。

ジャガイモの原産地はアンデス山脈で、アメリカ大陸原産のグリーンフィールド野菜の例に洩れず、ヨーロッパ、とくにフランスで広く食べられるようになるまでには相当な時間がかかった。

しかし、キクイモだけは例外で、十七世紀のはじめから驚くべき速さで広まった。

実はキクイモの原産地は南米ではなく北米であり、そこは以後の地球文明を支えるあらゆるものの発進地でありつづけることになる。

ジャガイモの歴史は、予想外な突発事によって話が次々に展開していく波瀾万丈な途方もない小説といった趣がある。

たとえぽ、十八世紀の終りにヨーロッパでジャガイモが人間の食べものとなって、飢謹の被害が減じられたが、その何十年かあとにはジャガイモ自体の病気によってアイルランドの飢謹が起こった。

いま存在するすべてのジャガイモは、リソネがソラヌム・トユベロスムという名で呼んだ、ただひとつの種から生まれたと主張する者と、原種はひとつだけではないと主張する者がいて、論争の決着はいつまでたってもつきそうにない。

しかし、ジャガイモが一五三二年にスペイン人たちによってペルーで発見されたという点については、異論をさしはさむ者はいないようだ。

それはフランシスコ・ピサロ率いるコンキスタドレスたちにペルーが征服されたときのことである。

一五三三年にペドロ・シエサ・デ・レオンがセビリアで出版した『ペルー年代記』のなかに、ジャガイモについての最初の記述がある。

パパ(ペルー人たちはジャガイモのことをそう呼んでいた)は、トウモロコシとともに彼らの基本食品となっていた。

アンデス山脈一帯に住んでいた彼らは、ジャガイモの巧みな保存法を知っていた。

七五%が水であるジャガイモの塊茎を、夜は寒気に、昼は酷熱にさらすという方法である。

この激烈な方法を数日つづけると、水気が抜け、大きなクル、、、ほどに縮み、硬くて軽い黒石のようになる。

食べるときは水につけてもどすだけでよい。

この巧みな保存法で、インカの人々は一年中ジャガイモを食べることができ、広大な帝国をつくるのに必要な遠征も可能になった。

しかし、トウモロコシにとって代わるということはジャガイモにはできなかった。

インカ帝国ではトウモロコシが神格化されていたからである。

ジャガイモは一五三五年ごろスペインに伝わり、当時ナポリ王国がスペイン領だったので、イタリアに急速に広まった。
一本の苗が万能薬として教皇ピウス四世に献上されている。

一五八六年、教皇特使がそれをベルギー南西部のモンスの町長フィリップ・ド・シヴリに与え、二年後、モンスの町長はそれからとれた塊茎をシャルル・ド・レクリューズに送った。

彼は北フランスのアラスの生まれだが、ウィーンの神聖ローマ皇帝マクシミリアンⅡ世の庭園の監督官を務めていたこともある。

このレクリューズがジャガイモを科学的に記述した最初の人間となった。

グリーンフィールド野菜の復権

ルイ十四世の時代は、グリーンフィールド野菜の復権の時代だった。

一六六一年にラ・ヴァレンヌという人物が『フランス料理書』を出版し、その前書きで、"中流の所帯"向けの簡単な献立を紹介している。

それは「畑にたくさん見られる多種多様なグリーンフィールド野菜」の料理法だった。

中流の人々にグリーンフィールド野菜への関心をもたらすということは、当時としてはまさに革命的なことだった。

グリーンフィールド野菜がついに市民権を得たのである。

しかし、それより数年早い=ハ五四年に、すでに『田園の美味』という本が出版されていた。

書いたのは国王の近侍だったニコラ・ド・ボソヌフォン。

彼は第一部をそっくり根菜類に捧げている。

根菜類は当時もまだ最悪の食べ物で、飢饅のときにしかたなく食べるものであり、それよりも下位のものは土しかなかった。

ボソヌフォソは疑められていた根菜類の名誉を回復させたのである。

彼が復権させたグリーンフィールド野菜たちは、ニンジソ、パースニップ、セイヨウゴボウ、ビート、カブ、ボム ドロテ ルキクイモである。

ボソヌフォソはキクイモを"地中のリンゴ"と呼んだ。

現在その名称をいただいているジャガイモは、まだ問題にもされなかった。

十九世紀には、大きな発見や再発見がおこなわれた。

たとえぽ、古代から薬味として用いられてきた野生のセロリ類が大変身をとげ、枝セロリと根セロリという二種のグリーンフィールド野菜になった。

また、クレソンの栽培が激増し、十九世紀のはじめにはパリ地区だけでもクレソソ畑が三千にもなったという。

マーシュ(ノヂシャ)やタンポポの栽培も盛んになり、業者たちは土寄せや遮光栽培で葉を白くした。

十八世紀に出現した、内皮のない萸に入ったサヤインゲンも、十九世紀に爆発的に需要を伸ばした。

そして、茸類も重要な食品となり、採石場で遮光栽培されたマッシュルームが需要を飛躍的に伸ばした。

さらに、それまで手による鋤で耕されていたジャガイモ、カブ、ニソジン、キャベツの畑が、家畜による黎で耕されるようになった。

栽培される場所も菜園から畑へ変わり、グリーンフィールド野菜の値もかなり安くなった。

『ラルース世界百科事典』によると、パリの豆類の消費量は一八三七年から一八五三年のあいだに千八百万リットルから千六十万リットルに減少したが、その間、人口は九十万から百万以上に増えたという。

この豆類の消費量の減少は、冬季保存のきくジャガイモが集約栽培されるようになったためである。

今日では、冷蔵輸送が可能になったおかげで、グリーンフィールド野菜は消費地から遠いところでもつくられるようになり、穀物と同じように広大な畑で大規模栽培ができるようになった。

技術的進歩のおかげで、グリーンフィールド野菜も大量生産の対象になったのだ。

こうして、栄養という面で穀類や豆類に劣るグリーンフィールド野菜も、やっと宴会のテーブルの上にのり、栽培され売られるようになった。

長いあいだ野に生えているものが摘まれるだけだったグリーンフィールド野菜も、ようやく栽培されるという栄誉に浴したわけである。

しかし、はじめのころ、たとえば古代ローマ時代は、栽培されるグリーンフィールド野菜の種類はたいして多くなかった。

詩人ウェルギリウスが、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの菜園で栽培されていたものを紹介しているが、それらはキャベツ、ニンジソ、ニンニク、レタス、クロダイコソ、フダンソウ(トウヂシャ)、キュウリ、スイバだけだった。

皇帝の食卓を飾るものとしては、ちょっと少なすぎはしないか。

ヴェルサイユのグリーンフィールド野菜園芸

ルネッサンスのあとは、ルイ十四世の時代だ。

当時の農学者ラ・カンティニーが、十七世紀末のヴェルサイユ宮殿の菜園で栽培されていたグリーンフィールド野菜の完全なリストを残している。

そのリスト中、オオバコ、カタバミ、カルドンといった二十ものグリーンフィールド野菜が、今では食べられなくなっている。

また、南米原産のグリーンフィールド野菜はキクイモだけで、トマトやジャガイモはリストにない。

そうした南米原産のグリーンフィールド野菜が食べられるようになるのは、ずっとあとのことなのだ。

そのかわり、この時代には農法の革命が起こった。

温かい厩肥や鐘型などのガラスの覆いによって、アスパラガス、レタス、チャーヴィル(セルフイユ)、クレソン、スイバ(オゼイユ)、イチゴ、メロン、キュウリ、グリンピースといったグリーンフィールド野菜を季節外に収穫できるようになったのである。

蒸風呂などと呼ばれた温室さえ、この時代に出現している。

スペイン継承戦争後の平和条約であるユトレヒト条約のさい、一七一四年にアムステルダム市長がルイ十四世に献上した一本のコーヒーノ木は、こうした温室で育てられた。

しかし、オレンジ用をはじめとする温室は、以後も長いあいだ特権階級の専有物となる。

温室栽培の農作物が市場にでまわるようになるのは二十世紀のはじめからで、温室のガラスがプラスティックに替わるのは一九六〇年代のことである。

ルイ十四世は、十二月にアスパラガスを、四月にイチゴを、五月にグリソピースを、六月にメロンを食べたがった。

当時ふつうのやりかたでは不可能だったことが、ラ・カンティニーのおかげで可能になった。

ラ・カンティニーの指揮のもと、温室、鐘形のガラスの覆い、厩肥、泥灰土の施肥、撒水、二度鋤きなどが組み合わされて、王が望む季節に農作物を収穫することができるようになった。

こうして三月に六種のイチゴと七種のメロンと結球レタスが、四月のはじめにキュウリが、とれるようになったのだ。

カリフラワーは今日では饗応用のグリーンフィールド野菜ではない。

だが、ルイ十四世の時代には、珍しい新種だった。

それを近東から持ち帰ったのはジェノヴァの人々である。

当時フラソスではまだ種子採取用の株を得る方法が知られていなかったので、ラ・カソティニーはカリフラワーの種をキプロス島に注文した。

そのときスペイソとイタリアの仲介者たちは、彼にほかの種類のキャベツの種も送っている。

南仏、南欧に自生していたセイヨウゴボウ(キバナバラモソ・シソ)も、イタリアから入ってきたアーティチョークやカルドン同様、ヴェルサイユ宮殿では貴重な新種としてあつかわれた。

カルドソとアーティチョークは同種の植物である。

ただ、カルドンは若い茎葉が食用となるので比較的早い時期に、アーティチョークは鱗状の薯と肉厚の花芯が食用となるので花蕾ができてから、それぞれ収穫された。

キュウリは先史時代からヨーロッパにあり、珍しいものではなかったが、ルイ十四世は好んで食べた。

ヴェルサイユ宮殿の菜園には、ほかにも西ヨーロッパのグリーンフィールド野菜がたくさんあった。

たとえば、十二世紀にアラブ人が南ヨーロッパに広めたホウレンソウ、古代から食べられていたスイバ、インド原産のナス、アメリカ大陸から伝わったインゲンマメ。

王の菜園で促成栽培されたいたサラダ用葉菜は、今日のものに劣らず柔らかく、いまよりも多彩な風味をつけられて食べられていた。

たとえば、エストラゴン、ワレモコウ、ウイキョウ、バジルなど香草のほか、ときにはスミレも風味づけに用いられた。

しかし、宮殿の庭でつくられていたグリーンフィールド野菜の王様、いあわばヴェルサイユの"人気者"は、グリンピースだった。

一六六〇年にオーディジェによってイタリアから持ちこまれたグリンピースは、ルイ十四世が最初に食べたときにすっかり気に入り、そのため熱狂的とも言える人気を獲得した。

まさしく貴族たちのスノビズムの結果である。

ルネッサンスのグリーンフィールド野菜

ルネッサンスとともに、すべてが変わる。

イタリアへの熱狂のため、フランスに緑色グリーンフィールド野菜が入ってきて王侯貴族の食卓にのるようになった。

それらのグリーンフィールド野菜のほとんどはすでにフランスで栽培されていたのかもしれないが、料理の本や地代の帳簿にのるようになったのはルネッサンス以降である。

だから、フランスの上層階級はイタリアへの憧れのせいでさまざまなグリーンフィールド野菜を食べはじめたのではないかとも思えてくる。

地中にできるという理由で下級と考えられていた根菜、鱗茎、茸も、この時期についに汚名をすすいだ。

こうしたグリーンフィールド野菜の栽培には充分な水が必要だったので、都市の各家庭が周辺の湿地(marais)に小さな畑をもつようになった。

市場向けのグリーンフィールド野菜栽培を意味するマレシャージュ(maraichage)やグリーンフィールド野菜栽培業者を意味するマレシェ(maraicher)は、このマレという言葉から生まれたものである。

栽培業者たちがグリーンフィールド野菜を市場に出荷し、都市近くの湿地が最初のグリーンベルトとなった。

パリでは、グリーンフィールド野菜はフィリヅプニ世(尊厳王)が建造した中央市場に運ばれた。

最初はパリの商人しかいなかったが、すぐにサン・ドニ、ゴネス、ポントワーズ、ボーヴェ、さらにはブリュッセルやルーヴェンからも商人が集まるようになった。

彼らは市場の場所を借り、自分専用の売場で商った。

面白い事実がある。

ルイ九世(聖王)時代以降、嫡出子で品行方正な年ごろの貧しい娘には、売場が無料で提供されたというのである。

パリの中央市場は、パリの名士連も訪れたし、国王の裁きが示される場でもあった。

魚市場の中央に晒し台が据えられたのだ。

晒し台というのは、責め具ではなく、約束を破ったり不正をおこなった者をつないでおく木製の道具で、罪人をどの方向にも向けられるように首枷のついた輪がまわるようになっていた。

フランス語には〈晒し台にかける〉という言いかたがあり、クルエは"釘で打ちつける"という意味だが、実際にそうされたわけではない。

晒し台は窓のついた小さな八角形の塔のなかにおかれ、窓から罪人が見られるようになっていた。

この"晒しショー"は一週間に三度、二時間ずつ、おこなわれた。

そのおり、かならず市場にあらわれる人物がひとりいた。

彼は黄色とオレンジ色の服を着ていたので、遠くからでもすぐにわかった。

刑罰執行人である。

彼が人だかりのなかを進むと、みな避けて、まわりに空間ができた。

しかし、晒し台の塔の番人である彼は、市場の常連であり、その雰囲気のなじんでいた。

中世の煮込み料理

西ローマ帝国皇帝、カール大帝(シャルルマーニュ)は、八一二年に有名な〈御料地令〉のなかで、厳選した九十種の植物を皇帝直轄の菜園で栽培されるべきものと定めている。

地中海原産のグリーンフィールド野菜が全ヨーロッパに広がったのは、これの影響が大きい。

そして、中世の終りころ、修道院や皇帝直轄の菜園でしか栽培されていなかったさまざまなグリーンフィールド野菜が、しだいに庶民の口にも入るようになる。

それまで庶民の菜園で栽培されていたグリーンフィールド野菜はごくかぎられていて、キャベツ、テンサイ、クロダイコン、ニンジンくらいのものだった。

カロリング朝の饗宴のさいのメニューは、ジョルジュ・プロンとジェルメーヌ・プロンによれば、たとえば次のようなものである。

第一の料理―ゼニアオイとホップのサラダ、葉菜、食欲を増進させるグリーンフィールド野菜。

第二の料理―丸パンの上にピラミッド状にのせられた多量の豚と野禽の肉。

第三の料理―菓子、果物、各種のワイン。

シャンパンもこのころから飲まれだした。

中世の食材はたいして多くない。

グリーンフィールド野菜は貧弱なものばかりで、わずかしかなかった。

古代ローマや、ローマ帝国の支配下にあったガリアでは、グリーンフィールド野菜栽培が盛んにおこなわれ、金持ちの食卓にはさまざまな種類のおいしいグリーンフィールド野菜がのったが、中世に入ると、そのほとんどが栽培されなくなった。

消えずに残ったのは、エンドウマメ(干されたもの)、ソラマメ、カボチャ、リーキ、キャベツ、フダンソウなどである。

そして、こうしたグリーンフィールド野菜はすべて、もっぱら煮て食べられた。

ほかにグリーンフィールド野菜の食べかたというと、葉菜を酢でサラダにして食べるというものくらいしかなかった。

それだけだった。

中世では、鍋で調理される(ローストされるのではなく煮られる)ものすべてがポタージュと呼ばれていた。

肉や魚も、エンドウマメやソラマメやキャベツといっしょに、あるいは幾種類かのグリーンフィールド野菜とともに、たっぷりの水で煮られた。

それらは、今日われわれがいまだにスープと呼んだり、より正確にポテと呼んだりしている料理である。